難民としての苦難乗り越え いま同胞たちに手をさしのべる
日本の企業で技能実習を受けるベトナム人は、2020年3月末、2,316人にのぼり前年比58%を超える増加率となった。在留外国人数では中国、韓国の次に多く、およそ41万2000人。日本語学習のために留学する学生も多く、それに伴って労働問題も多発している。
各地の労働組合にはこうした外国人実習生や留学生からの相談が相次いでいるが、スムーズな対応に欠かせないのが通訳者の存在だ。
ベトナム生まれの高山ユキさん(59)は、ベトナム語の通訳として全統一労働組合と二人三脚で問題解決に取り組んできた。
高山さんのフェイスブックには日々、ベトナム語で相談メッセージが全国から届く。
実習生からは、成田空港から強制帰国させられそうだとのSOSや職場で日本人の同僚に殴られたので訴えたいなど、急を要する連絡も多い。
はじめはとても緊張
高山さんは和食レストランの厨房でパートの仕事をしながら、外国人労働者弁護団で川越法律事務所の樋川雅一弁護士からの依頼を受けて、入国管理局や警察とトラブルに遭うベトナム人を支援していた。
その中で、職場で問題を抱える技能実習生の話を聞き、ちょうど4年ほど前に全統一労組に繋がった。実習生問題など、何も知らなかった高山さんだが、実習生や卒業後の就職に悩む留学生の間で、またたく間に緊急相談先として広まっていった。
通訳としての初仕事は忘れられない。ベトナム人実習生6名のための団体交渉だった。彼らは、作業がないときには自宅待機を命じられ、賃金未払いなどが生じていたとして相談に来た。
「はじめはとても緊張しました。不慣れのところに6人もいたので、どうやって通訳したらいいかもわからなかった」
話し合いが白熱し、ときには怒声が飛び交うこともあった。それでも全統一労組の佐々木史郎書記長から「ひるむ必要はない」と労組の立場の強さを伝えられ、その場を乗り切った。
それ以来、医療関係や入管、警察など各地で対応する機会が急増。20年間続けたパートの仕事を辞め、2017年、ベトナム人留学生などに就職先を紹介する株式会社スノー国際人材を立ち上げた。
新型コロナウイルス感染が拡大する中では雇用先が見つからず苦労が多いが、全統一労組からの依頼にはほとんどボランティアで応える。インターネットやフェイスブックのベトナム人コミュニティも定期的に訪れて積極的に声をかける。一方で、ポケットWifi貸し出し事業「Snow Wifi」も手がけ、日本語が堪能なベトナム人も雇用する。
なぜ、そこまで献身的になれるのか――。
「自分の国の人たちなのに、日本人の友人が支援してくれているのを黙って見過ごすことはできない」。そう思ったからだった。
命がけで故国を脱出
高山さんは1962年にベトナム南部で生まれた。
父は早くに亡くしたが、母はカトリック教徒で、ベトナム国内の政治情勢が不安定になりはじめた頃に北部から南部へ避難した。
高山さん一家は裕福な家系で、広大な農地を保有していたが、共産政権下で私財は没収され、平等の名の下に自由も奪われていった。
高山さんは多感な10代を戦火の下で送り、多くの友人や知人を失った。
「目の前に爆弾が落ちたこともあります。そんなときに『安全なところに避難して』と言われても、安全なところなんてないんです。一体どうしろと言うのか……」
「戦争に負けて本当に悔しかった」という強い無念は、いまでも抱えている。
戦争を生き延びたものの、終戦後も南ベトナムでは美味しい食事で再び空腹が満たされることはなかった。
兄が数年間、軍隊にいたことに加えて、一家が敬虔なキリスト教徒であったことで弾圧が強まることを恐れた母が、3人の子どもを密航船に乗せた。
乗船前、航海中に別の船が乗っ取られ、子どもや女性は拉致された。
男性は海へ放り出されたという話も耳に入って来た。不安がのしかかる中でも決断したのは、母からの強い勧めがあったからだ。
高山さんは自由を求めて同胞たち60人あまりと外国を目指した。小型漁船の定員は超えていた。当時20歳だった。
大海原に漂流していた数日の間、大小問わず何隻もの船が通りかかった。乗船していた仲間たちと大声をあげて助けを求めたが、救出してくれる船はなかった。
「助けを求めているのになんで手を差し伸べてくれないのか……。政治的な難しさはあったと思うけれど、まずは人命救助が優先であるべきではないですか」
母と祖国を後にした当時のことを一気に話し終えた高山さんは、目を赤くして「すごく大変でした」と小さくつぶやいた。
誰にも聞かれないから話したことはない――。何十年も語ることも思い出すこともなかったが、当時を再び振り返っても辛い思いは変わらなかった。
救出の見込みがなく、もう命も続かないだろうと察した高山さんは、「どうせ死ぬなら、いっそのこと泳いで助けを求めてきてくれ」と泳ぎのうまい弟に頼んだことを覚えている。
ようやくイタリア船籍の船に救出され、長崎の大村入国管理局にたどり着いた。
ときは、日本で難民認定制度が発足した1982年。高山さんらを含む人たちが難民と認定された。年間の難民認定数は現在でも2桁に留まる。
「本当はアメリカやオーストラリアへ行きたかった」と本心を語る高山さんだが、振り返ると、ちょうどバブル期に日本へ上陸したことは幸運だったと言えるだろう。
「毎日ずっと泣いていた」という大村入管を後にして、同じ難民であった夫と都心に落ち着いて家族を持った。
しかし、外国人であるためにアパートさえ貸してもらえないという差別的な対応を受け、日本国籍の取得を決断した。
それでもいじめられることを恐れた長男は、学校にくるときにはベトナム語を話さないようにと高山さんに訴えることもあった。
労働組合との出会い
日本に上陸して以来のこうした経験が、高山さんのボランティア活動の土台にある。
37年以上になる日本での生活で、「これほど温かな視線で見てくれる人はいなかった」と、高山さんが心底思うのが全統一労組の仲間たちだという。
初めて事務所のドアを開けたときから、その印象は変わらない。
インターネットを通じて、ラーメンに七味唐辛子を一本ぶちまけるなど子ども同士のいじめのようなパワハラから、軟禁状態で働かされていたり片眼を失うような暴力事件まで、実習生の様々な相談に応えてきた。
新型コロナウイルス感染拡大の中では、技能実習を終えても帰国できずにいるベトナム人が増えているという。最近では3カ月の短期滞在が許可され28時間以内であれば就労もできるようになったが、銀行口座やアパートを解約した後だったり、探しても仕事がなかったりと問題は続く。
通訳者として支援を始めた当初は、気の合わない人やお小言を吐きたくなるような人もいたが、年々増加する在日ベトナム人を見ると、高山さんは今でも国内では苦しい生活を強いられているのではと懸念する。
相談者に的確にアドバイス
問題に直面するベトナム人たちにとって最初に接触するのは高山さんであることが多い。たった4年の経験だが、「すでに適切なアドバイスができるようになっている。そこで問題が解決することもある」と全統一労組の佐々木書記長は言う。
不当な扱いを受けている、との書き込みを見つければ、写真やビデオを撮ったり記録を残したりするようにと助言するのを忘れない。
重要なのは、相談内容が労働組合マターであるかないか、または当事者の決意で解決に導けるのかを、高山さん自身が判断できるようになったことだ。
「技能実習」とは言うものの、ベトナム人労働者にとっては、使用者から「やっておけ」とだけ命令され、単純作業を任されることがほとんど。言語を習得する機会などなく、コミュニケーションには決定的に事を欠く。
労使間の交渉では、背景事情や専門用語などの知識が豊富かどうかで、通訳の正確さが左右される。
「高山さんがいなければ、ベトナム人の相談は受けていない」と佐々木書記長が言うほど、彼女の存在は大きい。
「ボランティア精神に富んでいて、困った人がいると助けざるをえないという感じ」。遠くは仙台まで、ともに遠征する佐々木さんはこう見ている。
実習生の問題解決に尽力
日々、住まいの川越市から四方へ奔走する高山さんだが、ときには気持ちが重くなる深刻な案件も担当する。
そうした件が解決した後は、頭をからにして全てを忘れるように心がけている。それが長続きの秘訣だそうだ。
回を重ねるごとに要領を掴み、今では多少熱のこもったやりとりがあると、「みんな闘っているんだな」と感じるほどに感覚が変わってきた。
あとを絶たない労働争議をずっと見守ってきた高山さんは「弁護士を立てなくても、話し合いで問題解決できる労働組合はすごい」と語る。
何カ月という時間がかかることがあっても、証拠を集めて労働委員会で追及したら、態度一変、未払い賃金の支給を約束して正式に謝罪した会社もある。
これまでも多くのベトナム人実習生が労働組合の力で、納得のいく結果を得て帰国した。
「管理団体や会社からひどい扱いを受けて、『日本はもう嫌だ』と言う実習生も多いです。けれど、悪いのは会社だけ。全統一労組の人たちのようにものすごく温かい日本人に出会ったからこそ、帰国しても再来日したいと言います」高山さんから笑みがこぼれた。
いつか呼び寄せようと願っていた自分の母は、日本の地を見ずに逝った。
そのせいなのか、高山さん自身はずっと、自分の全てを子どもの将来のために託すような母親だった。
差別を恐れて日本人に成り切っていた子どもたちも、国際的な教育を受けて大きく羽ばたき、ベトナムのルーツを誇りに思う大人になった。
今では「親孝行しなくても、自由にしてくれればいい」と考えている。
かく言う高山さん自身も、ときに難易度の高い翻訳作業を手伝ってくれる優しい夫や家族の理解を得て、自由に駆け回ることができている。
「それが一番ありがたいです」